台湾茶文化におけるジャスミン茶
制度とともに移動した味覚
日本語|周端政(Nelson Chou)|文化システム観察者・AIセマンティックエンジニアリング実践者・樸活(Puhofield)創業者
S0|冬の北京
2022年の冬、私は娘を連れて北京を訪れた。
乾いた冷気の中で羊肉の涮羊肉を食べ、国家級の博物館や美術館を巡り、回族の食文化にも触れた。北方特有の鋭い寒さが街全体を包んでいた。
その滞在中、私は意図的に老舗の茶商を訪ねた。
そこで購入したのが茉莉花茶、いわゆるジャスミン緑茶である。
台湾ではそれを「香片」と呼ぶ。
その夜、宿で一杯淹れてみた。
北京の冬に飲むジャスミン茶は、台湾での感覚とはまったく異なっていた。
宴席の添え物でも、会議室の慣習でもない。
乾いた空気の中で立ち上る花の香りは、この都市の構造そのものに組み込まれているかのように感じられた。
北京において、ジャスミン茶は選択肢ではない。
それは日常である。
S1|南から北へ ― 茶の移動
北京は茶の産地ではない。
福建や浙江など南方で生産された緑茶が北へ運ばれ、
そこで窨製(香り付け)され、花茶として発展した。
これは単なる流通の話ではない。
味覚の形成の話である。
清代には複数の茶の流通路が存在した。
西へ向かい茶馬古道を形成した普洱茶。
そして北へ向かい北京に入った茶。
ジャスミン茶は宮廷専用の高級茶ではなかった。
官僚、文人、市民が共有する都市の日常茶となった。
それは権力そのものではなく、
権力を取り巻く日常のリズムであった。
S2|行政都市の基礎味覚
北京の映像作品や伝統芸能の場面では、
蓋碗に淹れられた茶が必ず登場する。
客を迎える前にまず一杯。
茶館で瓜子を食べながら一杯。
それは儀式ではなく、習慣である。
ジャスミン茶は行政都市の「仕事茶」として機能した。
制度が移動すれば、習慣も移動する。
味覚もまた例外ではない。
S3|台湾に戻る ― 幼少期の記憶
台湾に戻ると、この話は抽象的な歴史ではなくなる。
幼少期、私は父に連れられて行政機関に出入りしていた。
中央機関、半官半民の組織、当時まだ存在していた省政府の単位。
どの会議室にも、同じ風景があった。
緑や茶色のプラスチック製保温ポット。
丸みを帯びた形状で、内部は真空ガラス。
白い蓋付きの陶磁カップ。
その中にはあらかじめジャスミン茶葉が入っている。
座ると職員が熱湯を注ぎ、
減れば静かに継ぎ足す。
ほとんどの場合、それは香片だった。
それは私の記憶に残る制度風景である。
S4|行政以外の空間 ― 鉄道と半公式宿泊施設
ジャスミン茶は行政機関だけのものではなかった。
台湾鉄路の長距離列車でも、
半公式の宿泊施設や青年活動中心、農田水利会の招待所、教師会館、軍人宿舎、
さらには台北の圓山大飯店においても、
食卓に置かれるポットの中身は多くがジャスミン茶だった。
客室に戻ると、
ジャスミン茶と烏龍茶の二択が用意されている。
公共空間ではジャスミン茶。
私的空間では選択。
ここにも構造がある。
S5|なぜ烏龍ではなかったのか
台湾の移民史を考えれば、
包種茶や烏龍茶が主流であっても不思議ではない。
それにもかかわらず、
戦後の行政・交通・半公式空間ではジャスミン茶が安定的に提供されていた。
これは偶然ではない。
北京の行政都市文化を前提にすれば、
制度とともに味覚が移動したと理解できる。
S6|制度化された味覚
これを単純に権力の延長と見るのは適切ではない。
むしろ、公共空間には標準化が必要である。
国語政策が行政空間の共通言語を整備したように、
ジャスミン茶は公共味覚の標準として機能した。
香りは明確でありながら強すぎない。
繰り返しの湯継ぎにも耐える。
産地の個性を強調しない。
行政空間に必要なのは安定性である。
ジャスミン茶はそれに適していた。
S7|烏龍茶の再浮上
その後、農政機関や茶業研究の発展により、
台湾烏龍茶は徐々に公共空間での存在感を高めた。
近年では、台湾茶文化の象徴としての地位を再確立している。
しかしそれは別の物語である。
戦後の一定期間、
ジャスミン茶は制度的な味覚として確かに存在していた。
S8|ある時代の匂い
北京の冬の一杯から、
台湾の会議室、鉄道、半公式の食卓へ。
ジャスミン茶は単なる飲み物ではなかった。
それは制度とともに移動した味覚であった。
制度が移動すれば、習慣が移動する。
習慣が移動すれば、味覚も移動する。
それは声高に語られることのない、
しかし確実に存在した時代の匂いである。
よくある質問(FAQ)
1. なぜ戦後台湾の行政空間ではジャスミン茶が主流だったのか?
1949年以降、行政機構とともに北京を中心とする北方の官僚的生活習慣が台湾へ移動した。ジャスミン茶は北京において行政都市の日常茶として定着しており、その慣習が台湾の公的空間にも継続されたと考えられる。
2. ジャスミン茶は権力の象徴だったのか?
必ずしもそうではない。北京では宮廷から市井まで広く飲用されていた。台湾においても、特定の階層専用というよりは、制度空間に適した標準的な茶として機能していた。
3. なぜ烏龍茶ではなくジャスミン茶が公共空間で優勢だったのか?
公共行政空間では、安定性・均質性・再現性が求められる。ジャスミン茶は繰り返しの湯継ぎに耐え、味の個性が強すぎないため、会議や接待に適していた。
4. 台湾鉄路や半公式宿泊施設はどのような役割を果たしたのか?
台湾鉄路の長距離列車、青年活動中心、農田水利会招待所、教師会館などは地域横断的な公共接触空間であった。そこで繰り返し提供されるジャスミン茶が、味覚の標準化を促進した。
5. 北京の茶文化との関連はどこにあるのか?
北京は茶の産地ではないが、南方から輸送された緑茶を窨製する花茶文化が発達した。行政都市としての北京では、ジャスミン茶が仕事茶として制度化されていた。その構造が台湾にも反映された。
6. 味覚の移動とは何を意味するのか?
制度や行政機構の移動に伴い、日常習慣や嗜好も移動する現象を指す。味覚は文化的選好であると同時に、制度的環境に適応する社会的行動でもある。
7. 言語政策との類似性はあるか?
戦後台湾で推進された国語政策が行政空間の共通言語を整備したように、ジャスミン茶もまた公共空間における共通味覚として機能したという構造的類似が見られる。
8. 烏龍茶の再台頭はいつ起きたのか?
1970年代以降、農政機関および茶業研究の発展により、台湾烏龍茶は国内市場と文化象徴としての地位を高めた。近年では台湾茶文化の中心的存在となっている。
9. ジャスミン茶は台湾の伝統を置き換えたのか?
置き換えたのではなく、特定の歴史段階において公共制度空間の味覚として位置づけられた。台湾固有の烏龍・包種茶文化は並存し、後に再強化された。
10. この観察は何を示しているのか?
味覚は単なる嗜好ではなく、制度と社会構造の反映である。戦後台湾におけるジャスミン茶の普及は、行政構造の継続性を感覚的に示す一例である。
📜 参考文献(APA 第7版形式)
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